−元禄期の古墳調査と補修の絵図−
わが国考古学の発端とその記録
 熊本市の青潮社(高野和人代表)が、元禄時代の天皇陵の調査記録などを収録した「天皇陵絵図史料集」を、創業30周年を記念して出版した。本書は、江戸幕府によるわが国初の山陵調査で、陵墓の状態を絵図を交えて記録した貴重な史料である。本書に収録されているのは、@川越藩士・細井広沢著「元禄十一年諸陵周垣成就記」、A幕府の故実学者・伊勢貞丈写本「天皇陵絵図・日嗣御子御陵」の古絵図B肥後藩士・木原盾臣著「雑玉考」の3種類である。


 細井広沢の兄知名は、大和郡山藩士であったが、戦国争乱を経て歴代皇陵が荒廃し忘却されているのを嘆き、その調査が緊急なる事を江戸の広沢に知らせた。広沢がその主人柳沢吉保に献言したのが端緒となり、これが採用されて幕府が東山天皇の勅許を得て、元録十年(1697)に、神武天皇から崇光院天皇までの六十六帝陵の所在地を列挙し、その諸陵のの修理・垣根設置事業の報告書に、この事業の経緯に関した記述を加えて一巻にしたものが本書である。
 本書の原本は、細川藩主宣紀の命で肥後の国学者・井澤蟠竜が享保六年(1721)に写し、それを幕末期に神風連の師・林桜園が写し、さらにその門弟で肥後勤王党の領袖・魚住源次兵衛が写本したものである。現在世間に流布されている三種の写本のなかで、本書が首尾・構成が一貫して最も調っている善本であるといわれている。
 第一回の探索修陵は、五畿内と丹波国は京都所司代松平紀伊守の下に、京都町奉行・奈良奉行・大阪城代・堺奉行がこれに当たり、讃岐・長門などの遠国は勘定奉行が所管し、元禄十二年(1968)に一応完成し、その絵図が添付された。

 わが国の古墳研究は「元禄十一年諸陵周垣成就記」のとおり、江戸時代の幕府による天皇陵調査に始まった。その研究は今日わが国の考古学や、古代史の解明に逸することのできない重要な分野である。
史上の記録をたどると何度か人々の日にふれ、また現地に立入り、中には内部毀損をうけたものさえある。
 幕府は皇陵の現状を把握し、荒廃から守る意味もあって、元禄期に初めて探索調査事業を行った。その後も続いて享保・文化・嘉永・安政・文久度にたびたび大きな修補が施され、その調査にともなって奉行が絵師に描かせて「天皇陵絵図」が作成された。
 本書は、その元禄修陵の江戸達書の要点や、「山城国修陵調査書」(歴代の所在地を列挙)、有名な学者・伊勢貞丈が写した赤裸々な元禄の「大和国陵絵図」(神武陵から光仁陵まで、未考陵四図を含む四十三図)を収録し、付録として藤貞幹の「奈保山御陵碑考証」を末尾につけている。

 江戸後期に「九州の三考古家」として、豊後の西田直養・筑後の矢野一貞とともに挙げられている有名な木原盾臣の研究については、戦前に文化人類学者の清野謙次博士がその著書「日本人種諭変遷史」の中で、「盾臣の玉に関する研究」などで特別に詳しく論じておられる。
本書が、その際に行方不明とされていた「雑玉考」の新たに発見された貴重な盾臣の自筆原本である。
 本書の内容は、盾臣が、根本的に玉類こついて精密な考証を施したものであって、「勾玉」「頸玉」「頭玉」「宝珠」「玉冠」「玉佩」「玉帯」 「玉箒」 「纓珞」「手玉」「足玉」 「髪玉」 「組綬」「薬玉」「餝玉」など絵入りで集大成し、肥後をはじめ九州各地はもとより、河内・甲斐・奥州にも及び、各地の考古学者の間で出土品の情報交換がなされていたものである。
 その考察は、「古事記」「日本書紀」はもとより神社仏閣の宝物、さらにオランダの西洋婦人図などとも比較検討しており、装飾具として玉類の使われ方に迫っている。そのあたりの知識は現代人はとても及ばない。実に、本書の中でこの「雑玉考」が白眉であるといえる。

「天皇陵絵図資料集」B5判・306頁・16000円【案内書・呈